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鹿沼のむかしばなし 春の段
はしか和尚
小杉 義雄 作
今はもうなくなってしまったが、昔、南摩の西沢に観音寺という山寺があった。このお寺は、檀家(決まった寺にお墓を持っている家)も少なく、財産もない貧乏寺だった。そのため,この寺に長く住みつくお坊さんはいなかった。
ところが、浄海和尚は貧乏など気にしなかった。あるとき、ふらりと寺にきた和尚は、どこからなんのために来たかも言わず、そのまま住みついてしまった。 和尚は暇さえあれば、本ばかり読んでいた。子供がくれば、1日中でも遊び過ごし、村人が相談にくれば夜のふけるのも忘れ、話し相手になっていた。 食べ物がなくなれば、村へ行って「腹の虫が騒いで困るわい。何かないかね」と、ありあわせのものをよばれ,米やみそをもらってくるという日を過ごしていた。 そんなくったくのない浄海和尚は、子供ばかりではなく、村中の人から「浄海さま、浄海さま」と親しまれ、したわれていた。
ある年の春のことだった。観音寺の石段をかけあがってきた子供たちが、「和尚さあん、和尚さあん」と、声をそろえて呼んだ。 「・・・・・・」 寺の中からは何の返事もなく、かたすみに作られたとり小屋のにわとりが、けたたましい声をあげただけだった。 「どこへいったのかなあ? さっきまではたしかにいたのに。 いなくたっていいや、遊んでんべよ。そのうち帰ってくんべから」 子供たちは、まるで自分の家にでも入るようにずかずかと本堂に上がっていった。 本堂の障子はやぶれほうだい、床は穴だらけ。一足ごとにみしみしと音がする。気をつけないと踏み抜きそうである。だが、子供たちはそんなことは気にもかけない。広い本堂の中をかけまわって遊んでいると、とつぜnどなり声がした。
「こら、こら、こら!どこのねずみどもだ」 「あっ!和尚さんだ。今まで,どこへ行っていたの?はやく遊んべよ」 どなられた子供たちは逃げるどころか、和尚のまわりにかけよっていくと、袖を引き、背中を押して、さくらの咲く庭へつれだした。和尚が子供たちと遊んでいると、
「浄海さあん、た、たいへんだあ」
留吉のおっかさんが急な階段を息を切らしてかけあがってきた、 「なんだね、そんなにあわてて、留吉がクマにでも食われたとでもいうのかね」和尚はのんびりした調子で聞いた。
「和尚さん、じょうだんはよしてくだされ、と、留吉がはしかに…」 おっかさんはそれだけ言うと、へなへなとすわりこんでしまった。 はしかは子供がだれでも、1度はかかる病気である。昔は、はしかは子供の「命定め」と言われ、子を持つ親に恐れられていた。ましてや、医者もいない、むかしの片田舎のこと、留吉のおっかさんのうろたえるのもむりはなかった。 気持ちもおおらかで、人一倍頭のよい留吉をゆくゆくは寺のあとつぎにと、心ひそかに思っていた和尚は、そのまま留吉の家にかけつけた。しめきった部屋の中で、あるだけのふとんをかぶせられ、顔を真っ赤にして寝ていた留吉は、和尚を見ると、「あついよう、あついよう」と、肩で息をしながらうったえた。 「留吉、わしがなおしてやる。わしのいうとおり、おとなしくねているんだ」 いつもはやさしい和尚が、きびしい声で言うのを聞いた留吉は、小さくうなずいた。
和尚は居住まいを正し、留吉の枕もとに座りなおすと、みじろぎもしないで、お経をとなえはじめた。日も暮れ、夜が明けても、和尚のお経はつづいた。1日、2日、3日、一心にお経をとなえる和尚の気持ちが通じたのか、留吉の熱は日ごとに下がり始め、やがて、はしかはすっかりなおった。 「ありがとうございやす。ありがとうございやす。和尚様は、はしかなおしのお坊さまです」 留吉のおっかあは、手をあわせ、何度も何度も礼を言いつづけた。
この話は村中にひろまり、浄海和尚は「はしか和尚」と言われ、その名は村から村へとつたわっていった。 「浄海さまにおねがいすれば、はしかは軽くすむ」 はしか和尚の名をつたえきいた人々は、子供を連れて観音寺を訪ねるようになった。 どんなに疲れているときでも、独鈷(お坊さんが使う道具の一つ)を片手に子供の頭に手をやりながら、お経をとなえる浄海和尚は、「はしかよけ」をねがう親と子にとって、なくてはならない人になった。 そんな和尚のからだも年ごとにおとろえていった。ある秋の夜、病の床にふしていた和尚は、 「わしのなきがらはこの独鈷とともに、山のふもとの橋のたもとにうめてくれ。わしの亡き後『はしかよけ』をねがってたずねてくる日とには、子供を抱いて、その橋下を3たびくぐるように話してあげなさい。そうすれば、『はしかよけ』にききめがあるであろう」と、あつまってきた人たちに言い残して,』眠るように大往生をとげたという。 村人たちはそのことばどおり、和尚のなきがらを橋のたもとにほおむり、その橋を『常海橋』と名づけた。
それから、数百年の間、常海橋は『はしかよけ』を願う親と子に、くぐられつづけてきた。年配の人たちの中には,幼い頃母親とともに、子の橋をくぐったことや、あるいはわが子を抱いて子の橋をくぐったことを、なつかしく思い出す人も多いと思う。しかし、医学の発達や世の進歩とともに、いま、そのならわしはほとんど行われなくなり、常海橋も人がからだをこごめて、やっとくぐれるくらいに改修されてしまっている。
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